「神さまがご覧になるところ」 01.09.02 サムエル上16:1〜13、コリントT 1:30〜31
イスラエルの初代の王サウルは、神に背きました。
そこで、サムエルは二代目の王を探しに行くように命じられました。
神の示しに従い、ベツレヘムに住む町のエッサイの家族から次の王を任命しようとしていた時に、
<人間が見るようには見ない。人間は目に映ることを見るが、主は心によって見る。>
との御言葉が与えられました。
サムエルに限らず、人は相手の姿、仕草、行い、言葉などによってしか、人を判断できません。
それで相手の心を知った気にさえなります。しかし本当は、自分の事さえ見抜けないのが私たちです。
ましてや、人の心を正しく知り抜くことはできません。
神は、私たちを知り抜いておられます。
たとえ人から誤解されたとしても、誤解なしに見てくださる。
人には、自分の気持ちや誠実さが分かってもらえなかったとしても、神は分かってくださる。
それは、大きな慰めとなることです。
神は、私たちの心の底、根っ子の部分をご覧になります。
そこには、神に創られ、命の息を吹き込まれ、よしとされている「良さ」があります。
同時にそこには「罪」もあります。
神は、良さだけでなく両面をご覧になった上で、ダビデを王にお選びになりました。
そこにダビデの王としての確かさがあります。
同じように、神は私たちの「良さ」と「罪」の両面をご覧になりつつ、信仰者として選び出してくださいました。
そこに、私たちの信仰者として生きる確かさがあります。
しかも、神は私たちをキリストに結ばれたものとしてご覧になります。
キリストを通して、「キリストというメガネ」を通してご覧になるのです。
そのようにして見えるのは、罪を拭い去られた私たちの姿です。それが神からの見え方です。
主に結びついている私たちも、そのようなメガネを通して周囲を見たいと思います。
すでに罪赦された隣人がいます。また、これから主が赦そうとされている隣人がいます。